リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

戦争はなぜ無くせないのか

「戦争は政治の手段である」という言葉がある。戦争は単なる喧嘩、憎しみ合いのためだけで起こるのではない。(背景にそういう感情があることは多いけれど)

相手との間の揉め事があって、それを話し合いでは解決できない時に行われる「解決手段」。それが戦争だ。

国内でAさんとBさんが何か(土地の権利とか、何か)で揉めた場合なら、どうしても話し合いで解決できなければ、裁判所に行けばよい。

しかし国際社会にはそういう問題解決の手段がない。国際司法裁判所というのはあるけど、強制力を持っていない。自分に不利な判決を受けた国は知らん振りができるのだ。それ以前に勝ち目がない裁判なら、出頭しない、ということもできる。

だから国際社会では、話し合ってどうにもならず、圧力をかけあったり他の交渉とバーターを試みたりしてもうまくいかず、かつ問題を棚上げもできない時は、戦争で解決することになる。

逆に、話し合いで解決できる時というのは、どんなときだろうか。話し合いが有効なのは「もし戦争になれば、話し合いで妥協するより多くのものを失う」と双方が考えた時だけだ。(だって、話し合いで妥協するより戦争で分捕った方が儲けが多いのなら、なぜ話し合うのだろうか?)

元アメリカ国務次官のウォルター・ベテル・スミスが述べたように「戦場で入手したり、保持したりすることのできないものを、外交により会議のテーブルで入手したことは滅多にないことを忘れてはならない」のだ。

つまり外交交渉さえも、戦争になった際の備えによって下支えされている。戦争は国際社会における最終的な問題解決の手段として、相変わらず温存されているのだ。

ハンナ・アレントも言っている。「今日まで戦争が残っている主な理由は、人類の内心の死への志向でもなく、抑制しがたい攻撃本能でもなく、…ただただ国家間の最終的決裁者として戦争の代わりになるものが未だに政治舞台に現れないという事実」のためなのだ。(ハンナ・アレント 「暴力について」 みすず書房 1973年 p95)

逆に言うと、本気で戦争をなくそうと思うなら、戦争反対を叫ぶだけでは不十分だ。戦争よりも優れた揉め事解決の手段を発明しなければならない。

そしてそれは単なる「話し合い」ではない。(なぜって、話し合いで解決できない時の解決手段が戦争なのだから)