リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

普天間返還が決まる経緯について江田氏の回想

 みんなの党所属の衆議院議員である江田氏が、普天間基地の移設が決まるまでの経緯を書いていらっしゃいます。無論、今年の話ではなく、90年代に普天間返還が合意されたときの話です。江田氏は当時、橋本総理の首席秘書官として官邸にありました。時節柄、非常に興味深い内容ですので、ここに一部引用して紹介させていただきます。

普天間基地の返還。それは、当時の橋本首相がまさに心血を注いで成し遂げたものだ。元々、幼少期かわいがってくれた従兄弟を沖縄戦で亡くしたという原点もあり、何度も沖縄入りし、都合17回、数十時間にわたり、当時の大田沖縄知事と会談して、まとめあげたものだ。


 ……ただ、こう言っても、実際、この問題に取り組んだことのない人には理解してもらえないかもしれない。あの少女暴行事件に端を発する沖縄県民の怒りが頂点に達した95年〜96年にかけての世論調査でも、この問題についての全国民の関心度は一桁台だったのだ。


 しかし、そうした状況下でも、橋本首相は政権発足時から動いた。96年の総選挙でも沖縄問題を愚直に訴えた。良い機会だから、この、まさに官僚の反対を押し切って、政治主導、いや、首相主導(首脳外交)で実現した普天間基地の返還、それに携わった者として、当時の経緯、深層等を振り返ってみることにしたい。もう十年以上も前の話だから、時効ということで許してもらいたい記述も含まれる。

パンドラの箱を開けた(上)・・・普天間基地移設の迷走 - 今週の直言

橋本政権の発足から、普天間の返還合意まで

96年1月に発足した橋本政権は、前村山政権から困難な課題を二つ、引き継いでいた。一つは「住専問題」、そして、もう一つが、この「沖縄問題」だった。95年秋に起こった海兵隊員による少女暴行事件。それに端を発する沖縄県民の怒り、基地負担軽減、海兵隊の削減等を要求する声は頂点に達していた。  


こうした声を受けて、橋本首相は、政権発足早々から、一人、この沖縄問題を真剣に考えていたのである。元々橋本氏は、政治家として昔から沖縄との接点が多い方だったが、夜、公邸に帰ってからも関係書物や資料を読みふけったり、専門家の意見を聞き、思い悩んでいた。  


…知事の意向を確かめたところ、「普天間基地の返還を首脳会談での総理の口の端にのせてほしい。そうすれば県民感情は相当やわらぐ」とのことだった。…しかし、外務、防衛当局、殊に田中均北米局審議官をはじめ外務官僚は、いつもの「事なかれ主義」で、まったく取り合おうとはしなかった。…したがって、2月24日のサンタモニカでのクリントン大統領との首脳会談での事前の発言要領には、「普天間」という言葉はなかったのである。  


…ただ、橋本総理も、この外務当局の対応を踏まえ、ギリギリまで悩まれた。首脳会談の直前まで決断はしていなかったと思う。しかし、クリントン大統領と会談をしているうちに、米国側の沖縄に対する温かい発言もあって、総理はその場で「普天間基地の返還」を切り出したのである。  


絶対返すはずがないと言われていた普天間基地全面返還合意を、96年4月に実現できたのは、すぐれて、この総理のリーダーシップと沖縄に対する真摯な態度、それを背景として、事務方の反対を押し切って「フテンマ」という言葉を出したことだ。……96年4月12日、官邸での記者会見で「返還合意」を発表したあと、夜、公邸に戻り、思わず総理と抱き合い喜びあったことを今でも覚えている。その時は大田沖縄県知事も「総理の非常な決意で実現していただいだ。全面協力する」との声明を出したのである

パンドラの箱を開けた(中)・・フテンマを日米首脳会談で提起 - 今週の直言

 ここに至って、普天間基地の代わりとなる十分な代替施設を別の場所につくり、そこに部隊を移転させることが決まりました。代替施設である以上、普天間基地が果たしている機能が損なわれない移転先であることが必要です。

引越し先の選び方

 代替地探しは2009〜10年の移設先見直しでも大きな問題になりました。やれグアムだ、テニアンだ、関西国際空港だと色々な人が意見を出しました。そして最終的にでてきた政府案では辺野古+徳之島の分散案で、やはり沖縄とその近くでした。その政府案に対して、徳之島だとヘリ部隊と地上部隊の距離が遠すぎるから受け入れられない、とアメリカから見解が返ってきています。

 これについてこのブログではこう解説しました。

個人や企業の引越しでもそうですが、引越し先がえらく不都合なところで、仕事に差し支えたら困ります。取引先が都内にしかない企業が、なぜか島根に引っ越したりしますと、営業が訪問するのも一苦労で、何とも具合が悪いでしょう。軍事基地もおんなじです。

…移設先について、当のアメリカ軍からは「海兵隊の地上部隊とヘリの駐留場所は、65カイリ以内じゃないと困るよ」という話がでました。(4/22 朝日)これもお仕事の都合です。


 普天間基地の仕事を消防活動にたとえてみましょう。台湾で紛争の火の手があがったとき、すぐ駆けつけて消すため消防です。海兵隊の地上部隊は消防士、ヘリは消防車です。火災現場にすぐ駆けつけるには、消防士と消防車は近くにないと困ります。これが遠く離れてあると

「こちら普天間消防署。火事の通報があった。急いで消防車をよこしてくれ」

「こちら消防車。わかった。すぐ行く。明後日の昼まで待ってくれ」

 という漫才のようなことになって、そんなことを言ってるうちに消せるボヤも大火事となり、家ならば丸焼け、紛争ならば拡大し、斬首戦略なら完了してしまいかねません。

普天間移設、および軍事は政治の道具だということの意味(追記あり) - 【移転済】リアリズムと防衛を学ぶ

 なぜ巡り巡ってまた沖縄になってしまったかといえば、引越し先には「普天間の機能が維持できること」という条件があるからです。普天間の部隊が果たしている機能の中のひとつ、「台湾有事に即応できる」ことを維持するには、沖縄近傍でなければ距離的に不可能です。なぜ徳之島だと不都合だと言われているかといえば、ヘリと地上部隊が分散していたのでは即応能力が低下するためです。

 普天間基地の機能を維持したまま移設する、という前提で考える限り、何度政権が変わろうが、何回再検討しようが、考えれば考えるほど沖縄に逆戻りしてしまうのはこういうわけです。

辺野古案の登場と一応の合意まで

普天間基地の返還は決まったものの…移設先が決まらなければ返還も不可能となる。  


 …もちろん、県外移設に越したことはないが、受け入れてくれる所もなかった。やはり「キャンプシュワブ案」しかないか。しかし、ここは珊瑚礁がきれいでジュゴンも生息する美しい海岸地帯だ。そこで、こうした生態系や騒音をはじめとした環境への負荷も比較的少なくてすみ、沖縄県民の負担もなるべく軽減、かつ日米安保からの要請も満たすという点をギリギリまで追求し発案したのが「海上施設案」だった。誰もが納得する100点はなく、そのベストミックスを考え抜いての、苦渋の決断だった。  


…総理もこれなら、粘り強く理解を求めれば沖縄の人たちもギリギリ受け入れてくれるのではないかと決断した。相変わらず、事務当局は否定的であったが、別ルートで探ったところ、米国からも良い感触が伝えられてきた。…


…97年12月24日、官邸に来た比嘉名護市長は、「大田知事がどうであろうと私はここで移設を容認する。総理が心より受け入れてくれた普天間の苦しみに応えたい(ここで総理が立礼して御礼)。その代わり私は腹を切る(責任をとって辞任する)。場所は官邸、介錯は家内、遺言状は北部ヤンバルの末広がりの発展だ。」市長の侍の言に、その場にいた総理も野中幹事長代理も泣いていた。  


思えば、ことは、国と沖縄県、日米安保体制の下での基地問題ということにとどまらず、本当に総理と知事、市長の、人間対人間の極みまでいった交渉であったといっていいだろう。いや、それを支えた梶山官房長官を含めて、当時の内閣の重鎮二人が心の底からうめき声をあげながら真剣に取り組んだ問題であった。理屈やイデオロギー、立場を超えて本当に人間としてのほとばしり、信頼関係に支えられたと一時信じることができた、そういう取り組みだったのである。  

パンドラの箱を開けた(下)・・移設先はキャンプシュワブ沖 - 今週の直言

 ここに至って、一応の合意がなされたのは辺野古沖の海上構造物案です。当初は名護市議会も市長も基地受け入れに反対でした。また受け入れの是非を問う住民投票でも反対派が多数を占めました。しかし経済振興策の提起などの交渉を経て、比嘉名護市長は受け入れと「その代わり私は腹を切る」の言葉通り、辞任しました。

しかし、このような全ての努力にもかかわらず、結論を延ばしに延ばしたあげく、最後に自らの政治的思惑で一方的にこの「極み」の関係を切ったのが大田知事だった。それまでは「県は、地元名護市の意向を尊重する」と言っていたにもかかわらず、名護市長が受け入れた途端に逃げた。当日、同じ時に上京していた知事は、こちらの説得にも名護市長とは会おうともせず、官邸に来て徒に先送りの御託を並べるだけだった。  


太田知事にも言い分はあろう。しかし、私は、当時の総理の、次の発言がすべてを物語っているように思える。「大田知事にとっては基地反対と叫んでいる方がよほど心地よかったのだろう。それが思わぬ普天間返還となって、こんどは自分に責任が降りかかってきた。それに堪えきれなかったのだろう。」

パンドラの箱を開けた(下)・・移設先はキャンプシュワブ沖 - 今週の直言

 その後も太田知事は辺野古移設に反対を通したので、彼の任期中は移設問題は進みませんでした。しかし後任の県知事である稲嶺氏が98年に当選すると、辺野古への移設を容認し、また名護市長も同意したため、移設先はやはり辺野古ということで話が進みはじめます。(ただこの時点の辺野古沖案は、2009年の政権交代前までに固まっていた辺野古案とはまた異なります)

 なおこの頃、新基地のかたちは「埋め立て」に落ち着きました。メガフロートや杭打ち方式で建設すると、防衛面などで問題があるし、それより何より地元沖縄の建設業者に出来ない仕事だからです。そのほか色々な面から考えて、基地建設の費用が地元に落ちる埋め立て案に落ち着きました。これがやっと2002年のことです。

 ともあれ、建築方式、滑走路の形や長さ、どの程度の沖合いにするかといった紆余曲折はあるのですが、場所については名護市辺野古を軸に検討されてきました。その叩き台を作った96年の交渉についての江田氏の回想へ、再び話を戻しましょう。

答えの無い問題に取り組むということ

確かに沖縄の問題は限りなく重い。60年以上苦しんできた沖縄県民が、普天間の移設先が県内では受け入れられないという気持ちもわかる。やはり「ヤマトンチュ(大和人)とウチナー(沖縄人)は通じ合えないのだ」とまで言われてしまえば、我々としては何をか言わんや、頭を抱えるしかないのだ。  


しかし、当時は、そんなことを超越して、本当に人間と人間との至高の営みとして、時の政権の首班と沖縄県の長が話し合った。十数回、何十時間にも及ぶ直接会談は、それを如実に物語る。  


…この総理の沖縄への思い、真摯な態度は、ヤマトンチュとウチナーの厚い壁をはじめて打ち破った。96年12月4日、総理が沖縄入りした時の、基地所在市町村会での雰囲気がそれをよく表している。場所はラグナホテル。当時の日記を紐解こう。    


冒頭、沖縄のことを最も考えてくれるのは橋本政権。
できるだけ長く続いてほしいとの期待の挨拶があった後、   


那覇市長 「総理は沖縄の心を十二分に理解してくれている。その情熱が心強い。」   


名護市長 「沖縄に『お互いに会えば兄弟』という言葉があるが実感。沖縄の痛みがわかる総理にはじめて会った。あとは感謝で言葉にならない」   


宜野湾市長「一国の総理が心を砕き、国政への信頼が倍加した。普天間の跡地開発をしっかりやりたい」   


金武町長 「希望が見えた。町民全体が燃えている」   


読谷町長 「日本の生きた政治を見る思い。村長をして22年になるが総理がはじめてボールを沖縄に投げた。やるしかない」等々。  


そして橋本総理が最後に挨拶に立った。
「私がひねくれていた頃、数ある従兄弟連中と片っ端から喧嘩をしていた。その中で岡山にいた源三郎兄い、彼は海軍の飛行練習生だったが、唯一私をかばってくれた。最後に会ったのは昭和19年の初夏…その年の10月、南西方面で還らぬ人となった。…彼が戦死した南西諸島というのが沖縄だということを知ったのは、戦死公報が届いた後のことだった。」


…地元新聞社社長の最後の言葉が忘れられない。「こういう雰囲気は40年のマスコミ生活を通じて空前の出来事だ。これまでは被支配者の苦悩の歴史だった。総理本当にありがとう。どうか健康には留意してください、それがここにいる皆の願いです」。


…鳩山政権における普天間問題の迷走をみて、今、私が何を言いたいか。これまで、くどくどと経緯を述べてきたのは自慢話をするためではない。


沖縄問題がこれまで解決できなかった理由は多々あるが、森政権以降、総理に「沖縄」の「お」の字も真剣に考えなかった人が続いたことが一番大きい。それに加えて、政治家や官僚にも、不幸なことに、足で生の情報を稼ぐ、県民の肉声に耳を傾ける、地を這ってでも説得、根回しをするという努力が足りなかった。

パンドラの箱を開けた(補論)・・ヤマトンチュとウチナー - 今週の直言

 ここまで長々と引用させて頂きましたが、これは当時橋本首相とともにこの問題に携わった江田氏の回想です。そのため立場を異とする人からみれば、何を勝手なことを、という風に見えるかもしれません。とはいえ、ここで書かれている「誰もが納得する100点はなく、そのベストミックスを考え抜いての、苦渋の決断」をとりまとめ、まがりなりにも普天間返還と移設の土台を作った労苦は、今こそ思い出されるべきことかもしれません。