リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

この道はいつか来た道 〜クリミア併合とエチオピア併合

2015年3月、日本の元首相の鳩山由紀夫氏がクリミア半島を訪問しました。NHKはこう伝えています。

ロシア国営テレビは鳩山氏の一連の訪問を連日詳しく伝え、この会見についても、現地時間の午後(日本時間11日夜)の全国ニュースで取り上げました。
このなかで、「鳩山氏が、『クリミアの住民投票が民主的な手続きで行われ、住民の意思を反映していることを確信した』と述べた」と伝えました。(ロシアTV「鳩山氏がロシアに理解」と報道 NHKニュース15.3.11)

クリミアに関するニュースを思うとき、私はエチオピアを思い出します。この2つの地域と国には共通点があります。国際社会の現状を変革しようとする国が武力を背景に国境線を変更し、そしてその一撃が、世界の秩序を揺るがせた、という共通点です。

 この記事では、そもそも国家がある土地を領有できる仕組み、国境をめぐる戦争を人類がどう克服しようとし、そして失敗してきたかを振り返ります。その上でクリミア併合を考えれば、何が見えてくるでしょうか。 

あなたの国を作る6つの方法

 国家がある地域を「ここはオレ達の領土だ」という権利は、どこから生まれるのでしょう? 伝統的な国際法では、その権利の発生源(領域権原)を6つほど認めています。先占、添付、征服、割譲、併合、時効です。

その1「先占(せんせん)」は、どの国も領有していない無主の土地にのりこんで、誰より先に支配することです。

その2「添付」とは、メールに画像をくっつけることではなくて、勝手に領土が増えること。海底火山の噴火で新しい島ができたり、川が土砂を流すうちに海が自然に埋め立てられたりするのがこれです。

その3は征服。相手国の領土に軍隊を送って占領し、領有の意志をもって支配することです。

その4と5、割譲と併合。2カ国が交渉し「この地域を譲渡する」と合意するのが割譲。さらに進んで「全地域を譲渡する、お宅の一部になる」というのが併合。

その6「時効」は、他国の領土であっても、長期間、平穏かつ実効的に支配を続けたことで「あそこは(事実上)あの国の領土だよね」と認知されることです。(ただし、ほとんど認められません)

あなたが自分の国を作りたければ、例えばこうしましょう。

はるか沖合いにどの国にも属さない無人島をみつけて建国を宣言(先占)

島が自然に隆起して領土が広がる(添付)

強い軍隊を作って他国に攻め込み、一部占領(征服)

武力を背景に「ここも寄越せ」と交渉して分捕る(割譲)

その調子で全部とることに合意させる(併合)

長年に渡ってオラが国だと言い続けて認知される(時効)

かくして、あなたの国は立派な帝国主義国、国際社会の一等国となれるでしょう。ただし、19世紀ならね。

武力による国境変更の禁止

19世紀の昔、列強と呼ばれる大国たちは、戦争の勝ち負けで領土をとったりとられたりしていました。しかし、20世紀になると考えを変えます。機関銃や毒ガスといった近代兵器で第一次世界大戦争をやり、あまりに悲惨な現実に直面すると、人類は「もうこんな時代には戦争なんかできない、しちゃいけない」と思いました。

そこで1928年に「不戦条約」が成立。「国際紛争解決のために戦争に訴えてはならない」「平和的手段による以外の紛争解決を求めない」というこの条約に、当時の世界のほとんどの国が加盟しました。

こうして、かつて見られたように、戦争なりその脅しなりで国土を拡張することは禁止されました。武力を行使した「征服」、武力を背景にした「割譲」「併合」が禁止されたのです。

では、戦争のかわりに、何をもって揉め事に白黒つけるのか? それが国際連盟です。連盟は仲裁裁判の場を設け、紛争を平和的に解決します。裁判に従わず、武力を用いようとする国には、国際連盟加盟国が一致して制裁を行う、という仕組みです。

20世紀初頭、人類は世界平和への大きな一歩を踏み出したといえるでしょう。ただし、二歩目で転倒しました。

エチオピア併合

イタリアは長いあいだ、エチオピア併合を計画していました。イタリアの植民地であるエルトリア(名前が似ていてややこしいですね!)に近いから素朴に領土拡張欲をそそられます。それに、19世紀にエチオピアを植民地にしようとして攻め込み、ヨーロッパ人には珍しくアフリカ人と戦って負けたことは、イタリアのファシスト達にとって屈辱の記憶でした。

そこでイタリアは1935年10月、軍隊をだしてエチオピア侵略を開始しました。その件で開かれた国際連盟は特別会議で、イタリアへの経済制裁を決めました。イタリアとの輸出入の多くの部分を禁止したのです。

ですが、制裁は最初から骨抜きでした。チャーチルのいう「それ無くしては戦争がつづけられないという石油(チャーチル著「第二次世界大戦」)」が、禁輸品目から除外されていました。

フランスとイギリスが、イタリアに甘かったからです。フランスの外相ラヴァルと、イギリス外相ホーアは12月に会談し、エチオピアの半分を国際連盟の統治とし、もう半分をイタリア統治区にするという和解案を考えました(ホーア・ラヴァル案)。不戦条約を破り、連盟規約を踏みにじった侵略国イタリア、その侵略の成果を公認してやろうというのです。

この案は新聞にスクープされたために一時頓挫します。しかしその翌年3月、ドイツのヒトラーが、非武装地帯のラインラントに軍隊を派遣。ドイツの脅威にうろたえた英仏は、イタリアどころではなくなりました。

そうこうするうちに5月。イタリアはエチオピアの戦いに勝利。エチオピア皇帝は国外に脱出。イタリアはエチオピア併合を宣言。7月までには経済制裁も解除されます。

こうしてエチオピア併合は国際社会に黙認されてしまいます。これを容認したことが、欧州征服の野望に燃えるヒトラーを誘惑し、ついに第二次世界大戦につながります。

戦争を招いたラヴァル外交の平和主義と楽観主義

f:id:zyesuta:20150312002839j:plainラヴァル外相

なぜ英仏はこうも侵略国イタリアに甘かったのでしょう? 親イタリア、親ファシズムで知られたフランスの外相ラヴァルは、経済制裁から石油を除いた理由を、後にこう証言しています。

「もし石油制裁が適用されるならば、イギリス・フランスとイタリアの間に戦争が起きたであろう。それは1935年の世界戦争となる。…私は戦争に反対である。私は暴力に反対である。さらに私は人間の生命を尊重する」(齋藤孝著「第二次世界大戦前史研究」p123-124)

この平和主義的な言葉と裏腹に、実際にはラヴァルの外交は戦争を招きました。イタリアとの戦争を恐れ、イタリアの侵略を容認したことが、ヒトラーへの誘惑となりました。不戦条約があろうが、国際連盟に批判されようが、要は英仏と直接交渉して懐柔すれば、何をやっても許されるようだ、と。

ラヴァルは楽天主義でもありました。イタリアと和解すれば、イタリアは対ドイツ包囲網(ストレーザ戦線)に復帰してくれるだろうし、そうすればドイツとも和解が成立する、と甘く考えていたのです。

しかし結果的にはイタリアの独裁者ムッソリーニから「ラヴァルはファシズムを理解する唯一の政治家だ」と、褒められているのか馬鹿にされているのか分からない評を受けながら、いいように転がされてしまいました。

 結局彼はイタリアを止められず、ドイツも止められず、ついに彼の国フランスがドイツに征服されてしまいます。

戦争を嫌い、相手の言い分にも理解を示し、和解すれば常に平和が訪れるほど、世の中は都合よくできていないのです。 なお、その後のラヴァルはドイツの属国となったフランスで副首相をつとめますが、ドイツの敗戦後、裁判で国家反逆罪となり、処刑されます。

国連憲章の時代と、国境の不可侵

f:id:zyesuta:20150312010418p:plain

ラヴァルが処刑された1945年、国際社会は国際連合憲章をつくり、今度こそ武力の行使を禁止。戦争を行わない世界、武力で国境線を変更しない世界を再び作り上げるべく、努力を再開しました。

多くの戦争があったものの「国境線を武力で変更しない」「国際紛争では、先に軍隊を出した方が悪者、侵略国」というコンセンサスは何とかできあがりました。

1970年には国連総会で採択された「友好関係宣言」で、世界各国はこう宣言しました。

国の領域は、武力による威嚇又は武力の行使の結果生ずる、他の国による取得の対象とされてはならない。(友好関係宣言 1970)

こうして「征服」や武力を用いた「併合」は、国際法上の根拠としては否認されました。

その後、1990年にイラクはクウェートを侵略し、全土を「征服」して「併合」を宣言します。イラクの独裁者フセインは、時代錯誤にも、国連加盟国であるクウェートを世界から消滅させられると考えたのです。

国連安保理はイラクによるクウェート併合宣言は無効だと、ただちに宣言し返しました。そして国連に授権された多国籍軍が組織され、イラク軍と戦って追い払い、クウェートの独立を回復しました。

ここにおいて、国連を中心とした国際安全保障の秩序が、一時的に復活しました。

クリミア併合

f:id:zyesuta:20140813171205j:plain(写真引用元:BBC)

 しかし、エチオピア併合から79年後の2014年。ウクライナ領のクリミア半島に、国籍を隠したロシア兵が多数侵入。親ロシア派の住民を背景に、クリミアを実質的に占領した上で住民投票を実施。プーチン大統領はロシア連邦へのクリミア併合を宣言しました。

 クリミア共和国がウクライナから独立し、ロシア連邦に編入、という形です。ロシア軍による「征服」なら侵略だし、「割譲」ならウクライナ政府の同意が必要です。しかしクリミアの人民が自分の意志でウクライナから独立するのは自由だし、独立したクリミアが1つの主体として自らロシア連邦に帰属したいと申し出るなら、ウクライナ政府の意志は問われない、という体裁です。

 もっとも、事実上は軍事占領してから住民投票をしたり、分離主義者に武器を援助して内戦を煽ったりするのは、古典的な侵略の方便ではあり、まともな国が認めるはずもありません。

 多くの国がロシアへの経済制裁を行い、そこそこ効果をあげていますが、ロシアの意志を変えるには至っていません。勢いにのるロシアは、東部ウクライナにおいてドネツク共和国、ルハンスク共和国を称する親ロシア派勢力を支援し、ウクライナで果てしない内戦を起こしています。

 東部の親ロシア派にすら勝ち得ないウクライナ政府軍では、クリミア奪還など夢のまた夢です。ヨーロッパやアメリカも、ロシアを批判しつつも、ウクライナに軍隊を送るつもりは全くありません。

 クリミア併合を近い将来において覆すことは不可能でしょう。区々たる岩礁の争いを除くならば、ロシアは冷戦終結後、初めて武力を背景にして大々的な領土拡張に成功した大国となりました。いや、古めかしく「列強」と呼ぶべきでしょうか? 21世紀の世界秩序が解体し、世界史のカレンダーが局地的には19世紀まで逆流しつつある可能性を思うならば。

解体する世界秩序と戦略的辺彊

 リチャード・ハースはこの状況をして、クリミアだけの問題ではなく、世界秩序の問題になりうると指摘しています。(過去記事「解体する世界秩序」)

国際社会には「力で他国の領土を奪うことは許されない」とする一定のコンセンサスが曲がりなりにも存在した。

1990年にクウェートを侵略したサダム・フセインを押し返すために広範な国際的連帯が組織されたのも、こうした原則とルールが国際社会に受け入れられていたからだ。

しかしその後、力による国境線の変更は認めないというコンセンサスも揺らぎ始めた。事実、2014年春にクリミアを編入したロシアは、かつてのイラクのようには国際社会から批判されなかった。

今後、論争のある空域、海域、領土をめぐって中国が力による現状変更を目的とする行動に出ても、国際社会がどのように反応するか分からない状況にある。リチャードハース「The Unraveling」 フォーリンアフェアーズリポート2014年11月号 p7)

 エチオピア併合のあとにドイツによる欧州侵略が生じたように、クリミア併合はウクライナだけではなく、世界の他の地域でも、現状への不満と野心を抱く国を勇気づけはしないでしょうか? 

 例えば、中国は近年著しく軍備を拡張するとともに、東シナ海・南シナ海で離島の領有権を強く主張しています。この政策の裏付けになっているといわれるのが徐光裕提督が1987年に発表した「戦略的辺彊」論です。

徐光裕が発表したこの理論は、軍事力によって国境が動かせることを説いています。…軍事力に優れた国は、平時の国境よりも広い範囲を軍事的に守ることができるでしょう。この時、地理的な国境より外側にあり、戦略的な国境の内側にある範囲を『戦略的辺彊』と徐は名づけます。…軍事力で実際に支配できる範囲を国境の外にまでドンドンと広げ、『戦略的辺彊』を長期間にわたって保つならば、やがてそこまで地理的国境を拡大することができる、と徐は論じます。(過去記事「中国の離島侵攻プランと『戦略的辺彊』」)

蟻の一穴。だとすれば誰が次のエチオピアになるのか?

洪水を阻む大きな堤防が、時として、アリが掘り抜いた小さな穴から崩れてしまう、という例えがあります。ごく小さな蟻の一穴も、そこに膨大な水が続くと、大洪水の始まりになります。

人類は数十年をかけ、大きな堤防を築いてきました。それは「武力で国境を変更してはならない」と固く刻まれた規範です。クリミア併合がそれに穴をあけたとすれば、やがてその1点から水が漏れ出し、濁流となって、全てを押し流してしまうかもしれません。

再び遡って1936年、イタリアがエチオピア併合を宣言し、国際社会がそれを事実上追認したとき、国際連盟のハイチ代表はこう語っています。

「大国か小国か、強国か弱国か、近隣の国か遠方の国か、また白人の国か非白人の国かを問わず、いつの日か我々も、誰かにエチオピアにされるかもしれないということを、決して忘れないようにしよう(ジョセフ・ナイ「国際紛争 理論と歴史 第7版」p124」

ドイツにとってのエチオピア、オーストリアとチェコスロバキアがヒトラーの餌食になったのは、その2年後から。第二次世界大戦が起こったのは、さらに1年後のことでした。