これから非常に大げさなことを言います。この記事は、小声で壁にでも話してるんだと思ってください。
過去記事へのコメントが嬉しい
1年前に書いた集団的自衛権の起源についての記事が、最近また多くの人に読んで頂いているようです。時勢ですね。
その中で特に嬉しかった感想がこちら。
集団的自衛権の歴史・性質を解説した記事。
リアリズムと防衛ブログ「集団的自衛権の起源と、戦争の克服」
http://t.co/gsu41l52fo
ブログの域を超えた、超わかりやすくも現実的な解説。
安保法案反対の、より詳しい根拠を各自鍛えるとGOOD!
#本当に止める
— 納戸地蜀江錦翁狩衣 (@emagovstr) 2015, 7月 16
集団的自衛権の起源と、戦争の克服 - リアリズムと防衛ブログ http://t.co/xaV2u8YpWp
今一度、このエントリーは広く読まれるべき。安保関連法案に賛成であろうとなかろうと。
— 撃壌◆ビアンキに哀悼の意を (@gekijounouTa) 2015, 7月 17
集団的自衛権の起源と、戦争の克服 - リアリズムと防衛ブログ http://t.co/mGhKn7FYxY
読んで良かった!意見の違いは兎も角、一度は読むべき!
— FATMANの腰は治療に時間が必要です。 (@ezwebmen) 2015, 7月 20
「意見の違いはともかく」「賛成であろうとなかろうと」と言って、人に勧めてくれた方が多く、嬉しかったです。安保法案には明らかに反対されているのだろう方にも、少数かもしれませんが、読んで頂けたらしく、良かったなぁと思います。
単に「私もそう思う」「本当にそうだ」という同意のコメントなら他の記事でもたくさん頂いてますが、論争になる話題で、賛成の人からも反対の人からも読んでもらう時ほど嬉しいことはありません。
平和のための論争は、たいてい殺伐としている
なんとなれば、安全保障問題とはとかく論争の種になりがちだからです。平和のための議論なのに、その議論自体がともすれば排他的、暴力的な言い方になりかねません。
平和と安全。自由と民主主義。ひらたくいえば、一人一人の気楽な暮らしを守るために、どういう手段が適切かを問う、安保問題とは技術的な議論のはずです。
ところが、ともすれば正義と悪、愛国者と売国奴、平和愛好者と戦争狂、夢想家と独裁者、そういう大げさな話になってしまいます。
すると議論の中身も素っ頓狂になりがちです。Aという案が通ったら直ちに戦争が勃発する、いやその案が通らなければ明日にも外国が攻めてくる、と、戯画的に言えばこのような。
そこでは、正確な知識に基づかない、印象づけや主義への純粋性が論争の武器になります。
なにせ自分に反対する者は、売国奴か人類の敵のどっちかなのです。まともな対話など、するだけ無駄というもの。
こうなると技術的な議論、目的に対する妥当性と費用対効果の検証などは、めったに行われなくなってしまいます。
これは民主主義のために良いことではありません。
たぶん愛が悪い
考え方が違っても、愛国者であり得る
祖国を愛する方法が一つしかないとすれば、その国は民主主義国ではないでしょう。考え方が違っても愛国者であり得、また意見が相違しても団結することができる。そう我国 の「愛国者」は考うることができぬ。(暗黒日記 1943年12月30日)
平和主義のために、人は好戦的になれる
私の平和主義者の友人の多くと付き合っていると、彼らの見解にはもちろん共感するんだが、戦争の廃絶について私をほとんど絶望させることがあまりにも多い。というのも、彼らの熱烈な平和主義の中にある好戦的な要素が目の前にちらつくからだ。リデル=ハート
戦争なんてしたくないという自己保存の思い。あいつらは悪い奴らだという義憤。それらはどちちも、戦争の原因の一つでもあります。
市民の力は知識
残念ながら国民一般がもつ軍隊や兵器に関する知識は驚くほど少なく、したがって正確な情報を国民に提供すべきメディアの知識もまた貧弱で、多くの間違いや誤解に基づく情報が流されている。 あるいは国民の軍事に関する知識を故意に利用した情報操作のための、客観性に欠ける情報の流布が行われている。これは民主主義にとって極めて危険な状態である。江畑謙介著「兵器の常識・非常識(上)」 p3-4とはいえ、それまで関心がなかった事柄について、急に「賛成か、反対か」なんて聞かれたって、困ってしまうでしょう。あらゆる分野には過去の蓄積、文脈というものがあります。それらを踏まえないと、現在の状況の意味するところがイマイチ分からないでしょう。
隅の方で静かに何か言う
とはいえ、もちろん私には上に引用した人たちのような広範な知識や高い見識は逆立ちしてもありません。ただ、そういう偉い人たちが書いた本を読むのはどういうわけか好きだ、という癖があります。
そうかといって、じゃあ軍事評論家だの巨大ブロガーだのになって社会を啓蒙するほどの馬力も持ち合わせてないもので、せいぜい今くらいの、日に1000PVかそこらのありふれたブログをぼつぼつと書いてるのが落ち着きます。
ただ、その程度の小さい声でも、どうやら意味がなくはないように思うし、楽しいと思うことも少なくないので、今後とも少しずつ書いていこうと思います。終風先生も、
言いたいことがある人はブログ書くといいですよ。
— finalvent (@finalvent) 2015, 7月 25
と仰ってるし。それに、それしきのこともできなかった人だっているからです。
先に引用した清澤洌は、1945年に没しているのですが、その年の元旦にこんな日記を書いています。
この国に生れ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。
いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることを、この国民が覚るように―。
「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようではこの国民に見込みはない。
僕は文筆的余生を、国民の考え方転換のためにささげるであろう。
本年も歴史を書き続ける。幸いにして基金もできた。後世めがけて努力しよう。
1945年1月1日 清澤洌