リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

「もう覚悟はしております」とパイロットは言った


 スクランブル、というものをご存知でしょうか。航空自衛隊の戦闘機が緊急発進することです。日本に対する領空侵犯を防ぐためです。領空侵犯とは許可無く日本の空に押し入ってくることです。

 未確認機接近の知らせが入ると、空自の基地からただちに戦闘機が飛び立ちます。パイロットがただちに戦闘機に飛び乗り、すぐさま離陸するのです。

 飛び立った日本の戦闘機は未確認機に近づき、領空侵犯を防ぎます。このまま進むと領空侵犯にあたるぞと注意し、誘導します。相手機がそれに従わなければさまざまに警告し、それでも駄目なら機関銃の威嚇射撃をおこないます。

このような領空侵犯対処のスクランブルは1年に300回近く行われています。

 このため航空自衛隊は24時間、即応できるよう常に備えています。夜中だろうと、盆や正月だろうと、いまこの時も例外はありません。パイロットは待機し、戦闘機にはミサイルを装着して、いつでも出られるようにしています。

 ところが――ここからが今日の主題なのですが、昔はスクランブルする戦闘機にミサイルを装着することが、禁止されていました。

手足を縛って送り出す

 スクランブル機がミサイルを装着してから飛べるようになったのは1980年代初頭、鈴木善幸内閣のころです。

領空侵犯に航空自衛隊の迎撃戦闘機が空対空ミサイルを装着して発進し、海上自衛隊の艦艇や哨戒機が魚雷を積載して行動するようになったのも、この時からでした。


裏を返せば、それまでは迎撃戦闘機が空対空ミサイルを装着しないまま領空侵犯機に、艦艇や哨戒機は魚雷を積載しないまま領海侵犯に対応していたことになるのです。
P124-125 黒木耐 著「戦うことを忘れた国家」

 領空に接近してくる外国の戦闘機はもちろんミサイルで武装しています。それに対して自衛隊側はミサイルなしで対応せねばなりませんでした。自衛隊側がそう臨んだわけではなく、政治側がそれを許さなかったためです。

 欠けていたのはミサイルだけではありません。権限と、その根拠となる法律も同様した。領空侵犯対処については自衛隊法で定められていません。任務のための武器使用が、法で許されていないのです。この法の未整備問題は現在でもかわっていません。80年代以前の自衛隊は現在よりもさらに批判的に見られていたので、武器使用については今以上に、不必要なまでに、慎重であることが求められました。

 つまり80年代以前の航空自衛隊は、ミサイルを持たず、機関銃も撃ってはならず、身ひとつで領空侵犯に対処することを求められていました。

 ですが同時に、そのように手足を縛られた状態でも、日本の空を守ることは当然求められました。そのための武器も、権限も、法律も与えられていなくとも、しかし任務は果たされねばなりません。

この矛盾を押し付けられていたのは、現場のパイロット達でした。

「もう覚悟はしております」とパイロットは言った


 パイロットたちはどんな気持ちで飛び立ち、任務に向かっていったのでしょうか。

 自衛隊の高官であり、後に更迭されることになる栗栖氏が、そんなパイロットたちとの会話を本に書いています。

私は、パイロットたちに、「緊急発進してソ連機のそばにいったことがあるのだろう」と聞くと、みんな、「ある」という。その時、どんな気がするのかと尋ねたら、「悲壮な感じになる」という。


ソ連機が弾丸を撃ってこなければいいが、撃たれた時はどうするのかと聞くと、「われわれは弾丸を撃ってはいけないことになっている」という答えが返ってきた。確かにその通りなのである。


そこで、私はなおも話を続けた。「しかし、現実にソ連機が撃ってこようとしたり、撃ってきたらどうするのか」


この私の質問に対して、第一線の日本の防衛を担っている彼らは、一言こういった。


「もう覚悟はしております。弾丸を撃っていけないのなら、ソ連機に体当りする以外にないと考えます」

p210-211 「仮想敵国ソ連 われらこう迎え撃つ」 栗栖弘臣 講談社 *1

 なおこの本の著者である栗栖氏は、この会話のしばらく後、罷免されます。ある雑誌でした発言が原因でした。自衛隊法に穴があるため、日本が奇襲を受けて防衛出動命令が間に合わないときには、現場の自衛官が超法規的行動にでる場合がある、という事実を述べたのが原因でした。

栗栖氏は罷免され、彼が指摘した法の欠陥はその後も放置されました。

リソースは小さくても、大きくてもいけない

 自衛隊はその後も、過小なリソースしか与えられない状態で、さまざまな任務*2を与えられ続けえました。

 そこには常に現場の犠牲がありました。現場の自衛官が不必要な命の危険を看過したり、万一のときには全責任を現場指揮官がかぶって、程度の差はあれ、超法規的に動く覚悟が必要でした。

 これは現場の自衛官にとってものみならず、一般市民にとっても危険なことです。なぜならば現場の善意による暴走を許す恐れがあるからです。現場指揮官の独走によって軍事力が運用されたとき何が起こるか、そのほとんど最悪の例を私たちは知っているはずです。

 かといって、現場が必要だと主張することは無制限に認めればいいのかというと、必ずしもそういうわけでもありません。あまりにも過大な権限を与えられた軍部は、時に政府の思惑を超えて国の方向性を捻じ曲げます。そのような例は日本に限らず、多くの先例がありますし、その一部はこのブログでも取り上げました。

 政府が軍事当局に与えるリソースは、それが任務に対して大きすぎても小さすぎても、市民と軍の双方にとって危険なのです。

対話によるシビリアンコントロールが必要

 よって、政治的にも軍事的にも妥当で、適切なシビリアンコントロールがなされるためには、政治の都合と現場の都合をすりあわせることが必要です。

 まず政府が意向を示します。それを受けて自衛隊側が「その任務を果たすなら、これこれのリソース(兵力、装備、権限など)が必要です」と答申します。それが政治的に「それはムリだ」という要求であれば、政府は意向を修整し、与える任務を縮小するべきです。

 例えば、どうしても必要な武器使用権限を認められないなら、その任務は与えない、または与えられる権限内で果たせる任務だけに絞る、といった具合です。任務の縮小によって必要なリソースを減らし、政治的に可能な程度に収めるのです。

 これを政軍双方が納得するまで行ってから、命令を下します。ひとたび命令されれば、自衛隊側は確実に政府の命令に従い、その範囲内でのみ活動します。また、現場は常に変化しますから、この対話は任務の遂行途中においても繰り返されるべきです。

 このような政治と軍事のいきいきとした対話があってこそ、シビリアンコントロールをより良く機能させることができるのではないでしょうか。さもなくば、その矛盾がまずは現場に押し付けられ、いつかは国民に返ってくることになるでしょう。

 …緊急発進を命令する指揮官や統制官の悩みも大きい。指揮官は、たとえ危険が迫ってもパイロットたちに”敵機を攻撃しろ”という命令を出すことはできない。


 また、指揮官がそういっても、正当な命令とは言えないから、パイロットはそれに従ってはいけないと法律に書いてある。


 そこで、「しかるべく、やれ」という。おまえたちは、わかっているだろうという意味である。


 パイロットは、もちろん攻撃することを決意している。以心伝心というものであろう。


 これと同じような場面が、第二次大戦の特攻隊の出撃である。

p212 「仮想敵国ソ連 われらこう迎え撃つ」 栗栖弘臣 講談社

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4 自衛隊を取り巻く現実を知ることが大切ですね
4 現場の指揮官の苦悩がわかる

*1:この部分については疑問がなくもないです。必要でも撃てないというのはともかく、向こうから撃たれた場合はパイロット個人の自衛や武器防護を根拠に射撃できるはずだからです。現場がこういう解釈に至った経緯について詳しくご存知の方がいらっしゃっいましたらぜひコメント欄で教えてください。

*2:国土防衛でもそうですが、特にカンボジア、ルワンダPKOの例がわかりやすくてひどい話です。