リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

中国海軍は何を考えているのか 建軍から未来まで

東アジアで軍拡が進んでいます。発生源は中国、特に海軍です。2010年8月4日のニューズウィーク紙は「中国海軍増強があおる東アジア軍拡」と題して、こう論じています。

 東アジアは海軍増強競争の真っただ中にある。


 日本は36年ぶりに海上自衛隊の潜水艦を増やす方針を固めた。シンガポール、インドネシア、オーストラリアも新たな艦艇を購入している。中国との「友好の年」を祝っているベトナムでさえ、キロ級潜水艦をロシアから購入。中国がインド洋に侵入することを警戒するインドとの防衛協力を強化しつつある。

中国海軍増強があおる東アジア軍拡 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 中国発の軍拡が、周囲に伝染しているわけです。軍縮が進むヨーロッパとは対照的に、東アジアは軍拡の時代に突入しています。

 海軍拡張の発生源となっている中国海軍は、いったいこれまでどう発展し、これから何を目指しているのでしょうか? 1950年の建軍から、2010年の現在まで、中国海軍(PLAN)の発展を追ってみましょう。

中国海軍の誕生……陸にあがったアヒル

甦る中国海軍
甦る中国海軍
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平松 茂雄
勁草書房
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 まずは建軍直後の中国海軍をみてみましょう。参考文献は「甦る中国海軍」です。この本は50年代から80年代までの中国海軍を分析しています。著者は中国海軍分析のエキスパートである平松茂夫氏です。

 中国共産党は「人民解放軍(PLA)」を組織し、日本と戦い、中国国民党と内戦を戦って、中国を制覇しました。しかしPLAの戦力は陸軍中心です。ろくな海軍を持ちませんでした。そのせいで敗北した中国国民党を、海上に逃がしてしまいます。

 そこで毛沢東が海軍建設に乗り出したのが1949年です。陸軍の司令官である蕭勁光を呼び出し「お前を海軍の司令官に任命する」と告げました。しかし海軍はいまだ存在せず、かつ蕭は海軍作戦についてド素人でした。蕭勁光は回想録においてこう述べています。(「甦る中国海軍」p17)

蕭勁光は、毛沢東から電報で北京に呼び出され海軍司令員に就任を打診された。「自分は『陸にあがったアヒル』みたいなもので、海軍について何も知識がない。船に乗れば、酔ってしまい、じっと座っているような始末である。そのような自分にどうして海軍司令員が勤まるでしょうか」と辞退した……

 毛沢東が蕭を任命したのは、考えあってのことです。海軍といってもまだ影も形もなく、イチから建設する段階です。まずはノウハウや知識を外国海軍から学ぶところからスタートします。お手本にするのは、ソヴィエト連邦の海軍でした。そこでソ連留学経験があり、ロシア語のできる蕭が適任だったのです。

 初代の「司令員」(司令官)に任命された蕭勁光のもと、中国海軍はとりあえず「ソ連海軍に学べ」という考えでスタートを切ります。が、その考えは毛によっていきなり引っくり返されます。

毛沢東の沿岸ゲリラ艦隊

(「毛沢東の旗のもとで前進しよう!」ポスター)

 中国海軍の大方針を最初に決めたのが、1950年に開かれた「海軍建軍会議」です。そこではソ連専門家の意見を参考にして「近代的で、攻撃能力に優れ、近海用の、軽型の海上戦闘力を建設する」との方針を決めました。そこでその兵力は沿岸で作戦するものが中心です。

当面は「空」(海軍航空兵部隊)・「潜」(潜水艦部隊)・「快」(魚雷艇部隊)を主体とし、その他の兵種部隊を相応に発展させることが掲げられた。(「甦る中国海軍」p21)

 海軍の任務は地上軍との協力にあり、国民党が支配する島々を攻略することが主目的となりました。他の目的としては、国民党海軍の海上封鎖に対抗すること、必要におうじて機雷戦や封鎖をおこなうこと等です。
 
 しかしその直後、1958年に毛沢東の気が変わります。当初は「ソ連に学べ」と言っていたのに、中ソ関係の悪化にともなって「外国に学べといい、自国を卑下するのは誤っている」と言い出します。そこで海軍も、ソ連のマネではなく中国独自の、要するに毛沢東スタイルの戦略を採用しろ、ということになりました。

 こうして毛沢東の戦略を海に延長した「海上ゲリラ戦」が方針となります。海から襲ってくる敵に対し、魚雷艇、小型潜水艦らが巧みに襲撃をかけるスタイルです。こうして「沿岸防御艦隊」という方針がひとまず定まりました。

沿岸防御からの脱皮

 とはいえ、毛のごり押しはあったけれども、軍艦の技術研究は進められたので、結果的に中国海軍は一般的な近代化の道をたどります。そして外海へと漕ぎ出していくのです。

艦艇の発展を背景に一九七〇年代の後半以降、中国海軍はそれまでの沿岸防衛的海軍から外洋海軍へと発展する傾向を示すようになり、一九八〇年代の後半には南シナ海の全海域に影響力を及ぼすまでに成長するにいたるのである。(「甦る中国海軍」p73)

 中国海軍は南シナ海の島々で戦い、海上領土を拡張していきます。そうなると「沿岸防御」ばかりではなく、近海作戦能力の向上が求められました。76年に毛沢東が病没すると、海軍は毛沢東思想から距離をおき、近代的な戦略思想に回帰していきます。

中国海軍の父・劉華清とその思想

劉華清

 毛沢東の死後、実権をにぎったのは訒小平です。訒によって海軍司令員に抜擢された劉華清こそは「中国海軍の父」ともいうべき提督でした。Andrew F. Diamondの論文「Dying with Eyes Open or Closed」他を参考にしつつ、そのあらましをまとめます。

 劉華清は中国海軍で初といえる生粋の海軍司令員でした。彼以前の司令員は、蕭勁光のように革命生き残りの闘士たちです。功績のある有能な老人ではあっても、海軍の十分な専門教育を受けていませんでした。それに対し、劉はそのキャリアのほぼすべてを海軍で過ごし、ソビエト留学によってゴルシコフの海洋戦略を学びました。

(セルゲイ・ゲオルギエヴィッチ・ゴルシコフ)

 劉の戦略思想上の師は、ソビエト海軍の戦略家ゴルシコフ提督だと考えられます。ゴルシコフはソ連にはじめて体系的な海洋戦略論を打ち立てました。ゴルシコフは大陸国家にあっても、バランスのとれた艦隊を建設する必要性を説きました。沿岸航空基地からの戦闘機、大型水上艦、潜水艦、そして航空母艦までも建造します。そして積極的な作戦によって何層もの防御網をつくり、近海を守ることを提唱します。

 劉華清レニングラードの海軍大学で四年にわたって学び、ゴルシコフの戦略思想を吸収しました。帰国した劉は海軍発展のために、まず沿岸部での防衛能力を高め、次に外洋での攻撃をふくむ作戦能力向上をめざします。ゴルシコフが説いたように、大陸国家の中国にもバランスのとれた艦隊を建設し、外洋への影響力を伸ばしていきます。

 そして戦略的なラインとして「第一・第二列島線」を打ち立て、作戦においては「近海積極防衛」を提起しました。沿岸に小舟を浮かべて敵の来襲を待つのではなく、第一列島線内側の近海では沖合まででていって、攻撃をふくむ積極的作戦をめざします。

 そのためには沿岸に限らずに活動でき、敵の海軍とまともにやりあえる、大型水上艦が必要となります。そして最終的には、近海で海洋制空権をにぎるため、航空母艦が絶対に必要だと劉は考えました。「中国海軍の空母をこの目で見るまで、私は目を閉じて死ぬことはない」とすら言ったと伝えられています。

 このような劉を中心とする新世代の海軍指導部は、沿岸防御にかわるあらたな戦略を立案します。

「近海防御戦略」の誕生(1980〜)

(第一、第二列島線

 劉によって副司令員に抜擢された張序三は、新世代の戦略として「近海防御」をとりまとめます。おりしも国連海洋法条約が成立しつつあり、沿岸国は200海里の排他的経済水域EEZ)の管轄権を認められました。そのため張の戦略は国土防衛にくわえ、海洋権益を守り広げ、沿岸防御戦略からの脱皮を明らかにしました。張の論文「中国海軍的発展戦略」はこう説いています。

国連海洋法条約の規定により中国の管理に帰属し、資源を保有すべき主権の海域面積は約三〇〇万平方キロメートル」である。


「中国大陸の三分の一に相当するこの広大な海域は交通路として重要であるばかりでなく、豊富な生物資源と非生物資源を蔵している」。さらに「中国は西太平洋に面した大国である」から、「海洋の重視は中華民族の根本的利益と関係する」。


……そこで中国海軍は「以上述べた国家利益と国際的闘争の情勢」から、「近海防御」の戦略を確定したことを張序三は明らかにする。これまでの沿岸防衛型海軍から脱皮することを、中国海軍の最高指導部が明言したのである。


「甦る中国海軍」p206

 中国近海の約300万平方キロはすべて中国の権益であって、海軍はこれを防衛する、としました。なお「近海」とは「中国の管理に帰する全海域を含むのみならず、これらの海域に存在する中国固有の領土、例えば東沙・西沙・中沙・南沙の諸群島も含まれる(同上)」としています。

 これを言い換えれば「渤海、黄海、東シナ海、そして南シナ海とそれらに存在する島嶼を軍事的にコントロール下におく」とし、そのための海軍建設に乗り出す、ということです。ここに至って、中国海軍の近海防御戦略が明確化します。

 なお近海”防御”とはいってもその防御は”積極防御”なのであって、当然攻撃も含まれます。たとえば中国固有の領土が他国の不法占領下にあるとすれば、それを解放するのは政治的にみて”防衛”です。そしてゴルシコフの思想においても、また毛沢東の思想においてさえ、防御を達成するためには攻撃能力が必要不可欠だとされています。

未来への三段階ロードマップ

 張序三と同じ雑誌に掲載された別の論文では、中国海軍の発展を三段階にわけて説いています。これは張の「海軍発展戦略」と関連しているとみられます。それによれば、まず20世紀のうちに基礎的な技術や機構をつくり、21世紀最初の20年で大きく躍進します。そして次の20年ではアメリカと並ぶ海軍大国になるべしと構想されています。

中国海軍の建設は三つの段階を経て遂行される。


第一段階は現在〜二〇〇〇年で、各種組織機構・学院学校・科学研究を二一世紀の海軍に発展させるための基礎が築かれる。……


第二段階は二〇〇一年〜二〇二〇年で、何隻かの軽航空母艦(二〜三万トン)を建造してヘリコプターを配備する。兵力規模は世界の主要海軍大国の艦隊に近づき、作戦能力は中国海軍が管轄する海域で戦役戦闘行動を実施できる水準にまで達する。


第三段階は二〇二一年〜二〇四〇年で、兵力規模は世界の主要海軍大国の艦隊に相当し、技術装備はその時点の先進水準に達する。作戦能力は大洋で有効な戦役戦闘行動を実施できる水準に達する。
「甦る中国海軍」p223-224

 2010年現在は第二段階の半ばです。このロードマップ通りならば、ヘリコプター母艦を建造するとともに、アメリカ、イギリス、日本といった世界の主要海軍国に匹敵する艦隊をつくっているはずです。その能力は、第一列島線の内側でならば、局地戦争を十分に戦い抜くだけの力を備えている予定です。

さらなる外洋化へむけて

 実際の中国海軍をみると、若干の遅れがあるものの、予定にかなり近い能力を備えてきているとみていいのではないでしょうか。大型水上艦を多数そろえ、ヘリコプターを搭載可能な大型揚陸艦「崑崙山」を入手し、さらに大量建造を行うとみられています(参考中国海軍、ドック揚陸艦と強襲揚陸艦の大量建造に着手か : 週刊オブイェクト)またゴルシコフが唱え、劉華清が悲願とした空母建造計画も、どうにか進められている模様です。(毎日新聞2010/8/1「海をゆく巨龍:転換期の安保2010 上海の島、空母特需 建造は公然の秘密」)

上海中心部からバスで1時間ほどで、長江(揚子江)河口の島、長興島に着く。……ここが「中国の空母の建設現場」(カナダの軍事専門誌・漢和防務評論)。島は活気づいていた。……ここで空母が造られていることは公表されていないが、中国の造船企業、江南造船集団の南大慶社長は昨年4月、地元テレビで空母建設について「準備が完了し、建造能力も備えた」と明言した。公然の秘密だ。

毎日jp(毎日新聞)

 おそらく2020年までには何らかの空母を建造し、ノウハウを蓄積していくでしょう。2040年の中国はアメリカと並ぶ海軍大国となり、世界の海で活動可能になる、という行程表は、1980年代の時点ではかなり空想めいたものでした。しかしそれから30年がたった現在、完璧ではないにしろ、少なからぬ程度まで実現化しつつあるようです。

1950年代の沿岸防御から、80年代以降の近海防御へ中国海軍は移ってきました。そして2009年、胡錦濤国家主席は海軍について「近海総合作戦能力を向上させると同時に、徐々に遠海防御型に転換」すべきと述べました。第二段階を着々と進めつつ、第三段階の外洋海軍への脱皮をすでに見据え始めている、とみるべきでしょう。中国海軍の外洋化は、第三段階を見据えて更に進み、その”積極防御”の対象になる国々には更なる脅威になっていくでしょう。

 最初は「陸に上がったアヒル」のようなヨチヨチ歩きであった中国海軍は、いまや水を得た魚のように活発化し、近海になわばりを広げつつあります。もしロードマップ通りに次の段階へ進むなら、いまは水中に伏せる竜のように、力をためて時を待っていると言うべきでしょう。まだまだ、これからなのです。