リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

平和はやっぱりカネで買える。ガーツキーの商業的平和論(Capitalist peace)

前回の記事平和はカネで買える。商業的平和論(Capitalist Peace )のはじまり - リアリズムと防衛ブログでは、経済発展が世界を平和にするという商業的平和論の歴史を簡単に紹介しました。

ノーマン・エンジェルは、工業化とグローバル化によって、近代戦争はたとえ勝利してさえ利益を得られないものになったと説きました。政治指導者がこのような現実をよく理解するならば、大国間戦争はもはや起こらないだろう、と議論しました。

その直後、2度の世界大戦が起こったことで、商業的平和論は猛烈な批判にさらされます。経済相互依存がいくら進んでも、だからって戦争が無くなることはないのです。

 一方で、経済は戦争を「無くす」ことはできないけれど、「減らす」効果があることは明らかになっています。ガーツキーの議論がそれです。

ガーツキーの検証

ガーツキーの実証分析は、過去の数多くの戦争についての統計分析です。地域、一人あたりのGDP、資本市場の解放度、貿易の進展、他国との同盟、民主化といった多くの変数を分析し、どういう傾向にある国で国家間紛争が起こりにくいのかを明らかにしました。

ガーツキーの議論は「民主主義国は戦争をあまりしない」とか「民主主義国同士は戦争をしない」という民主的平和論を検証しています。アメリカでは民主的平和論が大統領の演説にも登場するなど、大きな力をもっているからです。

さらに、経済的相互依存といっても、国境を越えた貿易と、国境を越えた投資のどちらがより戦争を減らすのかも調べています。

さて、その結果はどうだったでしょうか。

戦争を減らすものは投資である

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大まかな結論はこうです。戦争を減少させている変数は民主主義ではなく、市場経済(MARKETS)である。経済が発展すれば、戦争が起こりにくくなり、その中でも貿易依存度(TRADE DEP)よりも自由な資本市場(IMF FIN.OPEN.)の方が重要だ、ということです。

戦争によって敵国との貿易が途絶えるのは損失ですが、別の輸入元に乗り換えるという代替手段があります。

それに対し、敵国との間の投資は、戦争によってその全てが失われる恐れがあります。貿易より投資の方が戦争の抑制効果が強いのは、このような理由が考えられます。

相互依存で戦争が増える場合

一方で、主たる結論ではないところでは、こういう面白い結論もでています。

面白いことに、ガーツキーの商業的平和論は、戦争の減少のメカニズムのみならず、経済発展の結果ある種類の戦争は増加するという、戦争が起こりやすくするメカニズムにも言及している。...経済発展が進むと...近接地域での紛争は減るものの、しかし発展の結果としてより遠くへの軍隊の展開能力の向上から、遠隔地での紛争が増えるという。(国際政治哲学 p135-136)

遠隔地、特に海を隔てた地域に軍隊を送るには、途方もないリソースが必要になります。1万人の軍隊に1日3回の食事と1人2リットルの飲料水を供給し続けるだけでも大事業。古来、多くの軍隊が遠征先での戦闘ではなく、遠征それ自体によって消耗していきました。

 中国の兵法書「孫子」は、軍隊を遠征させる苦労と出費を強調しています。

孫子がいった。軍隊を用いる際の原則とはこういうことだ。...1日ごとに千金もの大金を費やして、ようやく10万の軍隊が遠征できる。

...国家が戦争のために貧しくなる原因は、軍隊が遠くまで遠征して、遠方まで物資を補給しなければならないからである。(作戦篇)

現代でも、事情は同じで、ある程度豊かな国でないと、遠方にまともな軍事力を展開できません。よって経済が発展することで、遠方での戦争が可能になる、という傾向をもちます。

全体としては、経済発展が戦争を少なくする

とはいえ、全体としては、経済発展が進み、国境を超えた投資が増えるほど、戦争の蓋然性は少なくなります。

よって、世界を平和にしようと思えば、経済発展を盛んにし、資本市場を自由化して、外国との経済交流を深めるのが重要である、といえます。

平和運動家よりも投資家の方が、結果的に世界平和に貢献しているのかもしれません。

商業的平和の限界

商業的平和論の効果は、戦争を「無くす」ではなく「減らす」だということがミソです。ここを誤解すべきではありません。

 投資等による経済的相互依存は、戦争を減らすことはできても、無くすことはできません。第一次世界大戦のとき、欧州の投資家たちは大損をだしています。国家は、経済的に損になる戦争を回避したがるものの、それでも戦う時はあるのです。

 なぜ国家は大損をしてまで戦争をすることがあるのでしょう? なぜなら、人はパンのみに生きるものではなく、国家は経済だけで意思決定をする主体ではないからです。

  国際政治学者の高坂正堯は、国家を「力の体系でもあり、利益の体系でもあり、価値の体系でもある」と言って、その性格の複雑さを説きました。

 国家が営利企業のように利益の体系であれば、不経済な戦争はしないでしょう。しかし実際には、国家は利益だけを追求するものではありません。力や価値といった観点も踏まえて行動し、時として戦争に踏み切ります。

  経済的にはペイしない戦争も、力や価値の観点からは、合理性を持ち得るのです。

  現に第一次世界大戦は、経済的には不合理ではあったけれど、最後は純粋に軍事技術的な都合、まさしく力の論理そのものによって引き起こされました。(過去記事 「戦争はなぜ起こるか4 時刻表と第一次世界大戦 - リアリズムと防衛ブログ」)

  よって、経済だけで戦争を無くせると考えて、軍事力による備えを軽視すれば、過去に何度となくあった失敗例と同じ道を辿ってしまうでしょう。

力による平和とその限界

 経済が戦争を不合理にするといったノーマン・エンジェルの議論は、世界大戦によって破綻しました。そのことが、やはり武力ぬきにして世界平和は語れないというリアリズムの議論を呼び起こしました。

 かといって、軍事力で戦争を防ぐというアプローチも、万全ではありません。過去の記事「集団的自衛権の起源と、戦争の克服」で述べたように、力による抑止で戦争を防ごうする努力が、時として大戦争につながった例もあります。

  つまり、必要なのは複合的なアプローチです。

 例えば経済的相互依存でだけで平和を築こうとすれば失敗の繰り返しになるでしょうが、経済抜きで平和を築こうとするのも誤りです。武力だけで平和を築くことはできないが、武力抜きで平和を築くこともまたできない、というのと同じように。

平和の鎖

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 平和というものを、戦争という猛獣を封じ込める鎖だとすれば、その鎖はいくつもの輪でできています。

  一つの輪は「武力」であり、また別の輪は「経済」です。また別の輪は平和や人権を尊ぶ等の「価値」、国際法や規範といった「法」、国際機構などの「制度」でできた輪もあるでしょう。

 鎖は、その最も弱い輪で切れる、といいます。どれか1つの要素だけで平和を築けると過信し、ほかの要素を疎かにしたならば、その部分で鎖は切れ、戦争が解き放たれることになるでしょう。